松尾鉱山の歴史

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松尾鉱山とは

松尾鉱山(まつおこうざん)は、十和田八幡平国立公園の岩手県側の東方、標高約900mに位置し19世紀末から1969年まで
岩手県岩手郡松尾村(現在の八幡平市)に存在した鉱山で、主な鉱物は硫黄で、黄鉄鉱も産し、一時は東洋一の硫黄鉱山でした。
その後、松尾鉱山は重油脱硫による回収硫黄等の影響をまともに受け、昭和44年に従業員全員解雇をして事実上の閉山、
昭和49年、会社更生手続終了まで60年間の鉱業でした。

松尾鉱山の生産品

生産品は黄色が鮮やかな硫黄で、主な利用としては化繊・合成繊維・製紙・農薬・肥料・化学薬品・医薬・染料などと
幅広い分野の原料として利用されました。
1911年(明治44年)に横浜の貿易会社増田屋が参画し、経営を掌握してから、多額の投資による本格的な採掘が始まり、
鉱山がある標高約900メートルの元山(現在の八幡平市緑ヶ丘)から麓の屋敷台(東八幡平、現在の八幡平市柏台)まで索道を通し、
1934年(昭和9年)に東八幡平駅から花輪線大更駅まで松尾鉱業鉄道を敷きました。

鉱山の生活

10月下旬から4月頃まで冬型の気候で積雪も多く厳しい環境でしたが、鉱山での生活すべてが完結できるように、
会社の福利厚生として住宅・病院・生活に必要な売店・学校・郵便局・銀行・娯楽施設等が設置され、
最盛期は従業員4,000人あまり、家族を合わせた人口は約15,000人が生活していました。
またセントラルヒーティングや水洗トイレ完備の鉄筋コンクリートによる集合住宅、劇場など
生活に快適な当時の最新設備が導入され、松尾鉱山は「雲上の楽園」と言われ、麓の人は松尾鉱山へ買い物や映画、演芸を
観に行くことが楽しみだったようです。

閉山後の松尾鉱山

木造の建物は延焼実験目的で焼却され、鉄筋コンクリートの建物だけが残された。
現在はそれらの建物が山中に廃墟として残っています。1990年(平成2年)に写真家の丸田祥三が廃墟化した松尾鉱山を
写真集に収め、それがニュース番組のイメージショットにも使われました。
また、鉱山から流出する大量の強硫酸水は北上川に流出を続け、強硫酸水を中和する為に
直接中和剤(石灰)を投入する暫定中和処理も行われましたが、北上川の汚濁は大きな社会問題となりました。
これを受け、昭和51年8月【北上川水質汚濁対策各省連絡会議】(五省庁会議)において緑ヶ丘地区に処理施設の建設が決定され、
5年の歳月と約93億円の巨費をかけ、昭和56年11月に旧松尾鉱山新中和処理施設が完成しました。
現在もその処理は続いています。

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